こんばんは、あすぴです。
いつも、訪問看護ブログサイト「ウチくる看護」にアクセスいただき心より感謝申し上げます。
皆様のおかげで、ウチくる看護は1周年を迎えることができました。
今回は、ウチくる看護1周年記念企画としまして、難病であるALS (筋萎縮性側索硬化症)を発症した患者さんとそのご家族にご協力をいただきインタビューを行いました。
筋萎縮性側索硬化症(ALS)とは?
ALS筋萎縮性側索硬化症(ALS)とは、手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気です。しかし、筋肉そのものの病気ではなく、筋肉を動かし、かつ運動をつかさどる神経(運動ニューロン)だけが障害をうけます。その結果、脳から「手足を動かせ」という命令が伝わらなくなることにより、力が弱くなり、筋肉がやせていきます。その一方で、体の感覚、視力や聴力、内臓機能などはすべて保たれることが普通です。
今回のインタビューでは、実際の在宅生活での苦難やご家族としてのリアルな思いをお聞きすることができました。
インタビューを4つの記事に分けてご紹介していきたいと思います。
訪問看護で関わることのある難病を抱えた利用者さん、そしてそのご家族がどのようなお気持ちで在宅療養を行っているのか、また訪問看護ではどのような関わりが可能であるのかお考えいただくきっかけになればと思います。
掲載に先立ちまして、インタビューを快く受け入れていただき、ご協力下さったYさんの夫のMさんには心より感謝申し上げます。
Mさんの同意の上でご意向に沿った個人情報の掲載をさせていただいています。
まずはALSを抱え闘病を続けたYさん、そして主介護者である夫のMさんのご紹介です。
自己紹介をお願いします。
こんばんは、M(なご実ケアサービス@ALS)と申します。
妻であるYさんとは、今年で結婚25周年を迎えます。
子供が2人、現在23歳の息子と21歳の娘がいます。
子供は2人とも看護師をしています。
妻がALSを発症してから14年間、在宅介護をしてきました。
妻が亡くなったのは、今から6年前になります。
介護を行う中で重度訪問介護事業所を立ち上げて、今も管理者としてALSを始めとして障害者の在宅療養の支援をしています。
YさんがALSの診断に至るまでの経緯を教えてください。
あれは2001年11月、Yさんが32歳の時です。
当時、息子は4歳、娘は2歳のころでした。
「息苦しい。なんだかちょっとおかしい。」と言ってA病院にかかりました。
A病院では過呼吸との診断で、経過を観ていました。
でも、そのことを僕の母親がとても心配して、改めてB病院に受診することになったんです。
B病院で診てくれた主治医がALSに詳しい先生でした。
その先生が検査の結果をみて、僕にこう言いました。
「奥さんはALSかもしれない。あなたの奥さん、半年後には人工呼吸器つけなきゃ死んじゃう。」
正直僕は、「このクソジジィ、適当なこと言いやがって。そんなはずないだろう。」と思いましたよ。
その時はALSの話は信じていなかったのですが、妻は徐々に痩せていきました。
「やっぱりおかしい。」と思って、C病院にセカンドオピニオンで受診することになりました。
C病院でもやっぱり、ALSだと診断されました。
ALSの診断後、在宅療養までの経緯を教えてください。
「私はこのまま死にたい。」
C病院でALSと診断がされた後、家族と医療者だけでカンファレンスが開かれました。
カンファレンスでは、僕が人工呼吸器をつけて欲しいと望まないのであれば、Yさんには人工呼吸器をつける、つけないという話は一切聞かないと伺いました。
家族である僕としては、もちろんYさんがこのまま死んでいくことなんて考えられませんし、人工呼吸器をつけて欲しいと希望しました。
その旨を僕から妻に話したら、「私はこのまま死にたい。子供に弱っていく姿を見せたくない。」と言いました。
そこからは妻を説得する日々でしたが、「僕が必ずどうにかする!」となんとかお願いしました。
妻と僕の2つの約束
Yさんとは結婚した時に2つの約束をしたんです。
ひとつ目は、同じ墓に入ること。
ふたつ目は、僕より先に死なないこと。
どんな状況でも、子供たちに「おはよう」、「おやすみ」、「行ってらっしゃい」、「お帰りなさい」って顔を合わせることが、僕とYさんの生きる意味だと一緒に話し合いました。
Yさんの葛藤も理解できましたが、繰り返し話し合った末に、ついに人工呼吸器をつけることに同意してくれました。
そう言ったものの、僕も人工呼吸器をつけたらどんな生活になるのかもわからなかったし、どんな障害福祉の制度が使えるのか知らなかったので、必死に市役所などで情報収集をしました。
市役所では、1日1時間、1ヶ月で30時間の支援時間をもらえることになりました。
「1日1時間で、仕事と子育てと家事をすることは無理だし、どうしよう…。」と絶望的な状況でした。
Kさんとの出会い
僕も小さな子供を抱えて、どうやって介護をしていったらいいのかと悩んでいました。
そんな中、D病院にラジカットの研究をしている先生がいると聞き、尋ねました。
病状の進行を遅らせるためのラジカットは、今は当たり前にありますが、当時はまだ認可が降りていませんでした。
無認可のラジカットの点滴はやっぱり高額で、がっくりしてD病院を後にしようとした時に、同じALS患者の家族に出会いました。
そのALS患者の家族から、「Kさんと言う方に会いに行ってみるように」と勧められました。
Kさんも同じくALSの患者で、僕の実家のある都内の地域に住んでいることがわかりました。
Kさんに会いに行ってみたら、「すぐに東京に引っ越してきた方がいい。自治体によって障害者に出せる支援資金は差がある。今の住まいより、実家のあるこの地域の方が、より支援を受けられる。そして自分で重度訪問介護事業所を立ち上げて、ヘルパーを雇って協力してもらえば、子供を大学まで出せるよ。」と助言をもらいました。
当時僕たち家族は埼玉県に住んでいましたが、Kさんの助言通りに実家の近くに引越しをすることに決めました。
引越し先の区役所に相談に行くと、月に320時間の支援時間をもらうことができました。
管轄の自治体によって、こんなにも差があることに驚いたのを覚えています。
ついに、人工呼吸器装着へ
僕が情報収集や引越しで慌ただしくしている時に、Yさんは入退院を繰り返していました。
身体が段々に動かなくなっていて、呼吸の状態も進行していることが見て取れました。
息子が小学校の卒業が迫り、なんとか退院して車椅子に乗って卒業式に出席したのを覚えています。
息子の小学校の入学式に出席しした時の写真が、妻の最後の立ち姿でした。
それから呼吸苦が強くなり、人工呼吸器を装着するため気管切開を行うことになりました。
人工呼吸器をつけると嗅覚が鈍くなると聞いていたYさんは、「最後にMの匂いを覚えておきたい。」と言いました。
僕は手術室に入る前に妻を抱きしめました。
僕たちの第二の人生は、こうして幕を開けました。
僕は吸引の仕方を習い、在宅療養に向けて退院に備えました。
でも、僕しか介護する人がいなかったので、重度訪問介護のヘルパーさんを探し始めました。
当時、自宅を訪問エリアにしている事業所が84社あったので、順番に連絡してみました。
その結果、引き受けてくださったのは、たったの2社でした。
支援者が少ない中、僕は「病院で過ごすために人工呼吸器をつけたのではない。家で生活するために人工呼吸器をつけたのだから、連れて帰ります。」と言いました。
病院のほとんどの医療者からは反対されましたが、1人の理学療法士の男の子が「こんなに言ってるのだから、帰ってもいいじゃないですか。」と言ってくれました。
この一言をきっかけに事態は好転し、ついに退院が決定しました。
2004年8月、人工呼吸器をつけた妻との在宅療養が始まりました。
ALSの診断を受けて、ご家族はどのような気持ちでしたか?
受け入れたら光が見えた
僕は最初、彼女がALSだと信じられませんでした。
だから全てを否定していました。
彼女は病気だから痩せていくのではじゃない、最近ちょっと食欲が無いからだ。
ALSという病気に彼女がかかるわけがないと思っていましたが、そう考えていることがすごく辛かったです。
先のことをどうしていいのか見えず、受け入れることができなかったんだと思います。
だから、Kさんに出会った時に「こうしたらあなたたち家族は生きていけるよ」と教えてもらった時に、初めて前を向くことができたんですよね。
息子と娘は対比的だった
息子は母が大好きな子だったので、人工呼吸器をつけてからも一緒に隣に寝たりしていました。
小さいながらも人工呼吸器には触っちゃいけないって気をつけて、添い寝する姿は本当に可愛かったですね。
小学5年生の頃には自分から希望して吸引も行っていました。
息子とは対比的に、娘は最後まで積極的に吸引をすることはありませんでした。
娘から一度だけ「なんでお母さんは病気なの?」と聞かれたけど、僕は「病気しちゃったのは仕方ないよ。」とだけ答えました。
健常者の家族とは比較してしまうかもしれないけど、食事は必ず一緒にとったり、家族が揃う夜にはおやつの時間を設けたり、家族が顔を合わせる時間は大切にしていました。
Yさんの在宅療養で大切にしていたことがありますか?
母の役割を続ける
YさんのALSの症状は進行していきましたが、1日3食の献立を立てるという母としての役割を続けていました。
Yさんが僕たち家族の健康のために献立を考えて、ヘルパーさんがYさんの手となり足となり料理をしてくれる。
そんな食事を食べることが僕たちの日常でした。
Yの定番メニューはカボチャのサラダで、毎週金曜日はカボチャのサラダをよく食べました。
夜間の支援で泊まっているヘルパーさんも、一緒に夕ご飯や朝ご飯を食べていました。
彼女の凄いところは、冷蔵庫の中身を全て把握していたところです。
把握している食材で献立を作るのですが、僕や息子が勝手に食材をつまみ食いしてしまって、あるはずの食材がなくてヘルパーさんとYさんを混乱させてしまうこともありました(笑)
コミュニケーションを大切にする
在宅療養を始めて僕とYさんは喋る時間が増えました。
Yさんのコミュニケーション手段は、14年間の療養生活の中で病状に応じて移り変わりました。
人工呼吸器をつけてから、唯一動いた足で透明文字盤を指して会話したり、そのあとは伝の心やレッツチャットを使用してコミュニケーションを図るようになりました。
気管切開をしてからコミュニケーションがスムーズに取れずぶつかることも増えましたが、本人の意向を大切にしながらじっくりと待ちました。
Yさんが訴える言葉は遮らない、先読みしないことを僕たちだけでなくヘルパーさんや関わる人たちの共通ルールにしていました。
ぶつかってイライラしている時にはなかなか読み取れない思いも、待つことを大切にしたら彼女の訴えも理解できるようになりました。
病状の進行により体の動く部分がどんどん減っていき、眼球の動きも鈍くなっても長く関わってくれたヘルパーさんはサインを読み取ることができるんですよね。
コミュニケーションを取れるヘルパーさんは、Yさんの支えだったと思います。
Yさんが亡くなった時、どのような経過を辿りましたか?
在宅療養を始めて14年が経過していました。
Yさんは体調不良で一時的な入院をしていた時のことです。
体調は改善して、退院も決まっていたのですが、急変したと連絡が入りました。
僕は息子と娘を連れて、慌てて電話で教えられたICUに向かいます。
到着した時に、妻は心臓マッサージをされているところでした。
イレウスによる胃の内容物逆流が起こり、誤嚥して窒息したことが原因でした。
とても信じられないような目の前の光景に、僕は何も言えず立ち尽くしていました。
隣にいた息子が一言、僕に言いました。
「お母さんかわいそうだ、やめてあげようよ。」
それで僕は、やっと我に返りました。
心臓マッサージをする医師に「先生、もういいです。」と告げました。
妻は息を引き取りました。
その日はちょうど、クリスマスの日でした。
僕は「絶対に霊安室の出口から出たくない、このまま連れて帰りたい。」と言いました。
病院側の配慮で、妻をいつもの車椅子に乗せて、通常の出入り口から自家用車に乗せて家に連れて帰りました。
家にはいつも通りヘルパーさんたちがやってきて、妻を囲んで談笑したりみんなでクリスマスケーキを食べました。
それはいつも通りの光景で、僕だけが泣いていました。
Kさんを始めいろんな人が彼女の最期の顔を見に来てくれました。
彼女は夫の僕から見ても本当にいい人で、多くの人に愛された人間だったと改めて思いました。
Yさんが亡くなった時、ご家族はどんなご様子でしたか?
最初に泣いたのは僕でした。
亡くなった母の姿を見ても、娘と息子は泣かなかったです。
火葬場で彼女の身体が焼かれた時、それまで涙を流さなかった息子と娘が、堰を切ったように泣きました。
彼女が亡くなった時、思い出すのは楽しかったことばかりでした。
ディズニーランドに行ったこと。
海に遊びに行ったこと。
朝日を見に行ったこと。
ALSの彼女との思い出は、本当に楽しかったことばっかりです。
彼女は亡くなったけど、彼女のおかげでこうしていろんな人と出会えて、僕や関わった人達が語り継ぐことで今もこうして彼女は活躍しているんですよね。
だから、寂しい気持ちもあるけど、ずっとそばにいるように感じています。
Mさん、ありがとうございました。
今回は、ALSを抱えながら、懸命に生きたYさんと共に寄り添い支えたご家族Mさんの闘病の軌跡をお伺いしました。
次回は、第2弾「重度訪問介護とは?|ALS家族が語る体験談〜ALS患者と在宅療養〜」をテーマに、Mさんの体験談を交えて重度訪問介護の詳細をわかりやすくお伝えしていきます。
ぜひ、お楽しみに!
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